大人のための中くらいの物語7    (2023年1月出版)

母のお団子

 私の名前は、かりん。父は中国人で、母は日本人です。私は中国の満州で生まれました。今から60年前の戦時中のことです。

 父は映写技師で、日本で母と知り合って結婚し、当時日本の植民地であるこの地にやってきました。2人はいつも一緒で、とても仲が良く、周囲の人達がうらやむほどでした。

 仕事熱心で、困っている人がいると、すぐに手を差し伸べた父。いつも笑顔で、とても優しかった父。そんな父でしたが、私が7歳の時、日本軍の攻撃に遭って亡くなりました。

 父が亡くなって、私は母と2人きりになりました。でも、寂しくはありませんでした。私が幼過ぎたせいもありますが、母が父と同じくらいに優しかったからです。

 1945年、日本は戦争に負けました。そして、満州にいた日本人のほとんどが逃れるように日本へ引き揚げました。しかし、母と私は父が眠るこの地に残りました。

 10歳の時、母が日本人である私は、、しばしば学校でいじめに遭いました。母はそんな私の頭を優しくなでながら、みたらし団子を作って食べさせてくれました。

 しかし、そんな母でしたが、私が12歳の時にはやり病で亡くなりました。その後、私は近所に住むリャンおばさんに引き取られ、おばさんの子として大切に育てられました。

 そして、18歳の時、おばさんの長男と結婚しました。

 

 それから、約40年後のある日のことです。

 ふと新聞を読んでいると、偶然に日本政府が中国残留孤児を捜しているという記事を見つけました。私の記憶に、再び「日本」が蘇った瞬間でした。


 これは中国残留孤児のお話。

 当初はかなりニュースになりましたよね。

 人の人生なんて、本人の意思に関係なく、1つのきっかけで大きく変わるんだと感じました。

 そして、日本を訪れる前と訪れた後の人生も、また大きく変化した人もたくさんいたと思います。

 このお話はそのニュースも以前までは取り上げられなくなった頃に書いたものだと思います。

 何となく自分の中で風化させたくないとの想いで。 

 2003年作。

白い部屋

 私は教育評論家だ。定年を待たずに公立中学の校長を退職してからは、各地で講演活動を行ったり、原稿の執筆を頼まれたりと、それなりに忙しい毎日を送っていた。

 私には一人息子の幸一がいた。幸一は幼い時から体が弱く、小学校の高学年になると、学校を休みがちになり、中学に入ると、学校自体を敬遠し始め、自分の部屋に引き籠るようになった。そして、ラジオの深夜放送ばかり聴いて、昼夜逆転した生活を送った。

 ある夜、幸一は私に、北海道にある全寮制の私立高校のパンフレットを渡し、「この高校に行かせて」と言った。

 そして、東京を離れ、北海道で暮らし始めた幸一は、まるで生まれ変わったかのように、何事にも積極的に取り組み、高校生活を謳歌した。

 ところが、久し振りに幸一から電話があった次の日、友人らと道内をサイクリングしていた途中、交通事故に巻き込まれて、命を絶った。まだ18年しか生きていないのに……。それなのに、どうして……。


 部屋って、1番個性が出ますよね。

 整理整頓されたり、散らかっていたり。

 ポスターを貼ったり、好きなものを置いたり。

 又は、殺風景だったり。

 それも個性ですが。

 この作品は当初ラジオドラマで書き上げたものを小説化しました。

 だから、「ラジオドラマ編」と「小説編」の2つがありました。

 ただ、いつ書いたのかが、いくら調べてもわかりません。

 多分2005年前後だと思いますが……。